No 4

1981年(昭和56)

「第6号」(’81.11月)

 「メンバー特集号」として、第1回不定期演奏会以来レイクスと関わったと思われるメンバーが列挙してある。

     Sax.馬場鐐三、早川和男、西口嘉矩、長谷川郁郎、神戸修、

         二之夕勉、川村輝雄、谷下清春、木下範夫、湊健、石川正明、            谷口正則、田中真二。

     T p.山口治、長崎浩、池田康之、堀口秀樹、加藤和彦、稲葉豊、

           矢田博人、山本純雄、中林士郎、堀部和人。

     T b.宮下則男、阪井泰宣、広田芳治、片岡貢、山中洋一、山下良樹、

         倉口民夫、片山芳則。

     D. 殿本正、野呂仁志、鈴木洋、越後吉弘、佐久間敦、永井崇裕、

     B. 中村徹明、尾崎敏彦、白樫冨士夫、辻寛文、

     G. 古立孝幸、山田裕喜、小竹敏之

     P. 増田豊、幸田高由、吉田美知子、岸辺久子。

     V. 古立亮子、岸辺久子

「第7号」(11月29日)

レイクスのここまでの歴史を振り返っているが、大きなイベントの後の練習や活動が、嘘のように下火になるのは今も昔も、そしてどこの団体も同じらしく、レイクスも広島遠征の後の練習に欠席者続出。そんな中12月5日に合歓の郷でのライブを、12月6日・27日とソワレ・ライブをこなし、12月20日には、メンバーの一部が、伊勢観光文化会館での梅村学園吹奏楽団定期演奏会(ゲスト・あべ静江)に賛助出演した。

1982(昭和57)年

「第9号」(2月28日)

 「第9号」がやっと出たが、これが「明けましておめでとう」号。           4月10日の、三雲のパブ「備前」でライブを伝えている。

「特別臨時号」(4月25日)抜粋。「日本鋼管沖で鯨を発見」「山口Tpが大阪へ転勤」「二の夕Asが千葉の銚子へ転勤」「殿本Drが入院」「鈴木Drがプロへ」。
「第11号」(5月30日
5月8日のソワレでの「鈴木を送る会」のド派手なライブを詳細           に報じている(馬場As、古立Gtの他に長崎Tpが久しぶりの           参加)。そして衰退気味のレイクスのことを考えてか、嬉野の「デ           ュークス」との合同練習の検討を伝えている。

「第12号」(6月6日)

 記事らしいものはなく、通信に載せる記事を募集している。
「謝罪、談話、ジョーク、希望、ウラナイ、ウラミ、想い出、請求、相談、ナキゴト、連絡、通知、言の葉、論文、ニュース、同解説、否定、文通希望、売ります、求む等皆さんの投稿をお待ちしています。」

「13号」(6月20日)
「サンデーナイト・ライブ・イン・ソワレ」は続いているが、レイクスは出ていないと書いてある。

「14号」(7月7日)

「15号」(8月15日)
筆が進んでいない。この「14・15号」の2号の紙面の半分は池田が書いたライブハウスのマップで埋められている。

1983(昭和58)年

「16号」(1月30日)
この号も古立が書いている。その内容は日曜のライブが土曜に変わったこと、池田の結婚式での演奏と二次会(ソワレ)の案内。
「17号」(3月12日)

ところが、その古立が小牧市へ転勤と決まり、2月26日、古立と亮子の追い出し大ジャムセッションの様子を、再び馬場が伝えている。そして5月21日に、Dr.小津昌彦、Ts.宮沢昭と西条孝之介、P.小川俊彦、B.稲葉国光、Vo.テリー小島、司会:いソノてルヲが松阪へ来ることと、レイクスがジョイントになりそうと伝え「みんな復活しようゼ」と呼びかけている。

「18号」(4月2日)

「19号」(6月25日)
5月21日、松阪出身で日本を代表するドラマーのひとり、小津 昌彦の故郷での初のコンサートが市民文化会館で開かれ、我がレ イクスが前座を務めることになった。<市制50周年記念事業> 「小津昌彦“帰郷”Jazzコンサート」で主催は松阪青年会議 所、後援は同教育委員会とある。メンバーは前々に記載。そうそ うたるメンバーである。レイクスはプログラムにはS馬場鐐三、 早川和男、西口嘉矩、田中慎二、谷口まさひろ、Tb片山芳則、 片岡貢、広田芳治、Tp池田康之、加藤和彦、稲葉豊、矢田博人、D殿本正、B辻寛文、P増田豊とあり、その後の通信第19号に 「小牧から古立ギター、遠路はぶらるご苦労さん」とある。この コンサートでレイクスが演奏した曲は「3・2・1・0」「JA ZZ UNLIMITED」「EASY MONEY」「BAS IE STRAIGHT AHEAD」「IREMEMBAR CRIFFORD」「BIG SWING FACE」「BIR DLAND、MOON RIVER」「SWITCH IN T IME」の9曲。最後に「HUMPTY DUMPTY」で合同 演奏を提案したが、これは断られた。練習もよくした。当時の吉 田市長が終演後「小津バンド゙よりも楽しかったワ。松阪の無形 文化財ヤ」と。また見に来ていたミキモトの山下という人が、レ イクスに感動。志摩で御木本真珠従業員のためのコンサートを企 画して下さったが、これはポシャッた。さて、コンサートの夜の ソワレでの打上げはレイクスの歴史に残るほど、素晴らしい体験 だった(JAZZ LIFEにも掲載された)。テリー水島がド ラムを叩いたのがこの時か。 しかし、この頃からレイクスの練習が成立しにくくなっていった。レイクス通信も「第19号」を最後に絶えた。

1984(昭和59)年

この年の「第1回」から3年続けて「松阪音楽祭」に出演したが、音楽祭出演のための単発の練習で、ほとんどやっつけ仕事だった。

1986(昭和61)年 7月17日、トロンボーンの片山芳則が病死した。弟さんの強い希望で、急きょメンバーを集め、19日の告別式の日、出棺に際して演奏した。滅茶苦茶辛く悲しい「ムーンライト・セレナーデ」だった。演奏が終わっても誰も口をきかなかった。なにか言えば涙が溢れ出ることをみんなが知っていた。
1987(昭和62)年 1月11日、長崎浩の結婚式で演奏。盛り上がった。この頃の唯一明るい話題だった。

同 年 3月18日。次のような文書が配られた。「定期的な練習にもメンバーは集まらず、今やザ・レイクスは死にかけています」

同 年 3月29日、「第4回松阪音楽祭」に出演。その前日の練習が最           後となり、松阪音文協を脱会、活動は完全にストップした。
同年  7月7日、お世話になったソワレは「べんがら」と改名し見事に           変身。今では松阪でも一番忙しい店となっている。このことだけが救いだった。

続く

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